《学校の歴史》


池田小学校小史(池田小のはじまり) ……池田村史より
 池田村史795ページに「池田村の歌(奈良 佐部春窓作 明治40年)」が載っています。その7番と8番の歌詞を紹介します。
(7) 村の役場は下発知 駐在所またここにあり隣の発知新田は高小学校あるところ
(8) 三つの尋常小学は 奈良 中発知 岡谷に鼎の足の如く立ちいそ しむ友達四百人
 池田村史(688〜690ページ)によると、歌詞の「高等小学校」とは、池田高等小学校(当時、尋常小学校を修了した子どもが進学し4年間学ぶ)のことで、発知新田に在ったとのことです。
 また、「三つの尋常小学」とは、三つの尋常小学校(当時満6歳で入学して4年間義務教育を受ける)のことです。その三つが、奈良、中発知、岡谷にそれぞれ設置されていたというわけです。
さて、この「池田村の歌」ができた翌年の明治41年、池田高等小学校と三つの尋常小学校が統合されて、「池田尋常高等小学校」となりました。今から101年前のことです。この学校が現在の池田小学校の母体となっています。本校の校長室には、この時の校長である萩野貞次郎先生を初代校長として、歴代校長の写真が飾られています。
 なお、当時の「池田尋常高等小学校」には、北分教場(上発知)、西分教場(佐山)、東分教場(奈良)、南分教場(岡谷)と四つの分教場がありました。分教場の在った地区は、現在のスクールバス通学の児童の地区とほぼ重なっています。今も昔も教育を大切にする人の思いは同じだなと感じられます。

 【参考】
  「池田村史」より…地区の名前が「池田」となった一つの説
池田村という呼称は、何時頃名付けられたか資料がないので判明しない。一説
によると明治二十二年町村制施行当時の村会議員が選出されて、村の名称につい て再三審議検討したといわれているが、上発知、中発知、発知新田、下発知の四字 選出の6名の議員は、発知村とすべきだと主張したが、他の佐山、岡谷、 奈良、 秋塚出身の6名はこれに反対した。ために議論紛糾し、初代村長の松井八十吉氏 の発案で松井氏の自宅付近の字名が下発知字池田というので、これを提案し諮っ たために発知村を主張する議員も、これに反対する議員も諒承賛成し、満場一致 で池田村が誕生したといわれている。しかし真偽のほどは判明しない…(以下略)
池田村史(昭和39年刊)P119より抜粋

以上は一つの説ですが、同じ池田村史のP114に、「池田」という字名が下発知22字の一つとして載っていました。下発知町に酒造会社「永井本家」がありますが、そこに隣接する東側あたりを、今でも小字「池田」と言っているとのことです。